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2016/4/15

新春特別セミナー「変動するグローバル社会の中で自己を確立する"WHY"」庄司 茂 氏<前篇>

 2016 年1月17日、ビジネス・ブレークスルー大学麹町校舎で、新春特別セミナー「変動するグローバル社会の中で自己を確立する“WHY”」が開催された。特別講師は、元フォルクスワーゲングループジャパン代表取締役社長の庄司茂氏である。セミナー前半は同氏による講演を、後半は本学講師の須子善彦氏によるファシリテーションのもと参加者も交えたトークセッションを行い、セミナー前半のテーマに沿った自己の掘り下げと所信表明を行った。

庄司氏説明写真.jpg

 庄司氏は2012年まで伊藤忠商事自動車本部に所属し、マツダモーターハンガリー社長、伊藤忠商事南アフリカ現地法人副社長、スズキモーターロシア社長等を歴任された。その後フォルクスワーゲングループジャパン社長に就任され「ゴキゲン♪ワーゲン」戦略にて2013年、2014年と2年連続で過去最高の販売台数を叩き出し、フォルクスワーゲンジャパンの黄金期を築いた。自動車販売業に携わってきた30年間に赴任した国はドイツ、オーストリア、ハンガリー、アメリカ、南アフリカ、ロシアの六カ国七都市にわたり、また幼少期にはイギリスはロンドンに住んでいた帰国子女でもある。
 BBT大学の新春特別セミナーにあたり、世間でよく言われるグローバルとは一線を画す「真のグローバル」を体感されてきた同氏をこのたび特別に招聘し、赴かれた各国でのエピソードを踏まえながらビジネスリーダーとしての心得を語っていただいた。
 庄司氏はまず参加者に、今回の講演内容のTake awayについて以下を提示。

・経営の秘訣「自転車の乗り方」
・「想定外」を楽しもう
 若いうちの失敗とは免疫である
 常識という障壁
 「should」を捨てる
・想定外を楽しめるための武器・・・自分自身への「WHY
 自分の性格 発想 価値観のルーツ
 自国の文化・歴史という屋台骨
・グローバル・・・いかに自分の壁を捨てていくか
・リーダーシップ・・・見えてこないものを見ていく行為

 そして講演の要所々々で上記にちなんだエピソードが出てくるので「ご自身と照らし合わせながら何らかの参考にしていただければ」と述べられ、話し始めた。

ドイツ・ベルリン ~「ある日突然」の崩壊~
 庄司氏が最初に駐在したのはドイツ・ベルリン、1988年5月である。その翌年にベルリンの壁は崩壊し、翌々年には東西ドイツは再統一するに至った。
 当時、首都ベルリンは東ドイツの中にあったので、ベルリン内も東ベルリン(ソ連)・西ベルリン(連合国)と統治を分けていた。この東ベルリンの中に一カ所、へそのように突き出た場所があった。第二次世界大戦後にソ連側が強行し領分とした区域であり、ベルリンの中でも政治経済の中枢を担っていたAlexanderplatz、Stadtmitte、Potsdamer Platz、東京で例えるなら銀座、日本橋、丸の内が含まれたエリアである。そしてここには旧ドイツ時代に整備された、起点と終点とが西ベルリン側にあり中間の一部区間のみ東ベルリンを通る地下路線が走っていた。

ベルリン地下鉄.JPG

 1961年8月に突如作られたベルリンの壁によって東西ベルリンの往来を遮断した際、公共交通網もこれにより東西で分断されることになったが、上記路線については、東ベルリンに位置する駅を一部の例外を除いて通過のみさせることで対応した。これが「幽霊駅」である。堅牢に封鎖された駅の構内は薄暗闇に浮かび上がり、東ベルリンからの脱走者を監視するため駅のホームに配置された国境警備隊が銃を構える様子はひどく不気味であった。庄司氏は、観光スポットとなった幽霊駅を日本から来た客人に見せるため、たびたび地下鉄に乗ったという。そして客人たちはその気味の悪さを大いに喜んだとのことである。
 庄司氏がドイツに赴任して一年半経った1989年11月、ベルリンの壁は何の前触れもなく突如崩壊した。西ドイツ側にいる人間にとっては、壁が作られたことも壁が崩壊したこともいずれも「寝耳に水」つまり想定外の出来事だったと、現地を知る庄司氏は言う。

◎想定外はよく起こる
 庄司氏はドイツ・ベルリン時の出来事をはじめ様々なビジネスシーンでこのような状況を幾度も経験してきたことを踏まえ、参加者に「想定外というものはいくらでも起こること」と説く。そして、ロジックツリーといった多くの想定問答はほぼ必要がないものと断言する。というのも、想定とはそもそも外れるものであり、外れる前提で物事を考えないと視野が狭くなってしまうからである。また、具体策まで作り込む時間があるならば着手した方が早い。着手し、失敗し、そこから学んでいった方が余程良いロジックを生み出せ、想定外対応ができるようになっていくと庄司氏は述べる。しかしここで庄司氏は「ツリーの出発点の項目だけは沢山用意しておくこと」と注意を促す。多くの出発点を考えておけば、たとえそれらが全て外れたとしても心の準備ができ平静を保てるので、十分に良い策を立てられるとのことである。
 そしてもう一つ大事なポイントとして庄司氏は、ツリーの出発点を考える作業は「多くの状況や物事を見てきたリーダーがすべき仕事」であり、部下にその役目を負わせてはならないと提言した。

ハンガリー ~旧共産圏における市場開拓~
 次に庄司氏が赴任したのはハンガリー、1994年のことである。ハンガリーはドイツ再統一と時を同じくして社会主義から民主主義へと移行。また1991年終わりにはEU拡大の契機となったマーストリヒト条約が締結され、民主主義化したハンガリーに多くの先進国が注目し始めていた時期でもある。
 当時、伊藤忠商事はスズキと現地合弁会社を発足し工場を持ったのだが、その翌年にはマツダとも提携し、包括的な東欧戦略の一つとしてマツダモーターハンガリーを設立。伊藤忠の二股外交によりマツダはスズキと利益相反を生むことになり、スズキに遠慮しながらお目こぼしの範囲で営業していたマツダは結果、販売不振に陥り、発足からわずか一年半で1.5億円の累積赤字を抱え撤退を検討する状況にあった。
 その頃庄司氏は、マツダモーターハンガリーの親会社であるマツダオーストリアに社長補佐として出向中だったが、伊藤忠からハンガリーの会社を閉めてくるよう言われ、単身ブタペストへ赴く。そして現場を調査したところ、撤退せずとも黒字に転換できると判断。「私に全裁量権を与えてくれればこの会社を潰さずに済むので一年時間をほしい」と本部に掛け合い、マツダモーターハンガリー社長として就任し、再建に取り組むことになった。御年31歳、冬のことである。
 ここで庄司氏が行った「聖域なき経営改革」とは以下の二つである。

20160117 庄司茂氏プレゼン資料 ver.2-2.jpg

  「コスト削減策」においては、正確には削減ではなくゼロにした。「仕分けなき仕分け」の断行である。というのも、仕分けをするとそれぞれについて方々から必ず不平不満が出る。そこで全てをゼロにし文句の言いようがない状況を作ったという。なおリストラによるコスト削減を庄司氏は一切行わなかった。
 「販売促進策」においては、マツダの車を売りすぎると伊藤忠本社がスズキに怒られるので、スズキが売るような乗用車ではなく商用車で売り上げを稼いだ。宣伝はファミリアで打ち、実際に売るのはボンゴという作戦である。
 ハンガリーの冬は日本とは比べ物にならない寒さであり、電気を付けない、暖房を入れないオフィスで従業員たちは、ダウンジャケットを着込み、マフラーを何重にも巻き、かじかむ手に指先だけを切った手袋をはめて(各々が自前で作っていた)キーボードを叩いていた。再建に必死だった庄司氏はその時思わず「とにかく一年我慢してくれ。黒字になった暁には必ずエアコン買ってあげるから」と言ってしまったという。

◎経営とは「自転車の乗り方」
 「後になって分かったことだが、この時の発言は実のところいわゆる『経営』哲学に則っていた」と庄司氏はハンガリー時代を振り返る。庄司氏はつまりこの時「トンネルの長さを明言した」のだが、人間はその苦しみをいつまで我慢すればよいのかが分からないと付いてこなくなるものであり、期間を明示することでスタッフのモチベーションを維持させるのがリーダーの務めであることを知ったと語る。また、報酬アップよりも職場環境の改善(Non-Salary Benefits)の方がスタッフにとってプラスになると庄司氏は言及。というのも給料は使ってしまうので恩恵が形に残らないが、環境改善という目に見える形の提供は分かち合った苦労の記憶と共にいつまでも残るからである。エアコンを買えた一年後、夏は涼しく冬は暖かなオフィスで、スタッフは当時の労苦を懐かしみながら働きやすくなった職場を喜んでくれたとのことである。
 またブタペストで大雪が降った次の日、出社するとオフィスのそこかしこで雨漏りしていたことがあった。しかし当時まだ社会主義の名残が強かったハンガリーでは屋根の修繕に人を呼ぶにも時間がかかる状況であり、そしてスタッフは皆寒さと闘いながら懸命に仕事をしていた。そこでルーティンの仕事がない庄司氏は自ら屋根の雪下ろしをした。スタッフにはこの日本人何をするんだろうと笑われ「落ちるなよ」と声をかけられる有様だったという。しかしこの時の経験も後々になって「社長の仕事とは、皆が活躍する環境を整えること」という経営哲学に沿っていたと庄司氏は回顧する。
 いずれも当時は目の前の問題を解決するため必死にやっていたことだったが、自らが率先して職場環境改善のために動く姿は、スタッフの心を確実に動かしていたのだと後々になって庄司氏は知ったとのこと。そしてリーダーに必要な「求心力」の形をこの時理解したと述懐。そして「経営」とは、何度も転び、失敗し、多くの経験をしながら、手探りで体得するもの、つまり「自転車の乗り方」のようなものであり、周りに乗り方をいくら伝授されてもうまくいかないが、ある時自分なりの方法で乗れるようになるもの、そして後はひたすら前に向かって漕いでいくものでないかと論じた。


アメリカ ~戦略なきミッション~
 ハンガリーでの経営立て直しを成功裏に収めた庄司氏が次に配属されたのは、アメリカ・ニューヨークである。ここでのお題は「自動車関連会社をどこか買収せよ」というものであった。2000年に差し掛かる少し前のこの時期はちょうどM&Aが騒がれ始めた頃であり、つまり日本全体がM&Aについてまだ知識不足だった時代である。伊藤忠商事も例に漏れずM&Aに精通している人間は少なかったという。庄司氏がどんな会社を買収すればいいのかを尋ねても「とにかく良さそうなところ」という答えしか返ってこない。本社の方針が掴めない中、庄司氏は社長職から一転、40歳手前にして飛び込み営業を体験することになる。アメリカ中にある自動車関連会社の一軒一軒に電話をかけ、電話口に出た人間に社長と話をしたいと言い、社長に電話を代わってもらえるや否や開口一番「お宅の会社を売ってくれ」と言うのである。あまりに無茶な方法であり、100軒電話して1軒にもならない、一週間に1軒でもアポイントが取れたら、その週は嬉しくてしょうがなかったという程に打率の低いものであった。
 庄司氏はこの時にテレアポ営業の厳しさを知り、歳を取ってからではとてもじゃないが耐えられなかった、30代で経験しておいて良かったと笑う。またこのテレアポから自戒の念として学んだことは、自分が欲しいものが何なのかが分からない状態で戦略を立ててはならないということである。伊藤忠商事に「Wish list」がない、つまり何が欲しいかが彼らにも分からない状態で人にものを頼んでも、頼まれた者は無駄な営業をし、ストレスを抱え、疲弊し、結局失敗に終わってしまう。欲しいものとその優先順位は必ず相手に明示しなければならない、と庄司氏は語気を強める。

未知なることに挑戦する時の障壁とは「見たことのないオバケ」
 アメリカ駐在の経験から教訓として挙げられるのは、何であれ「やってみる」ことだと庄司氏は語る。というのも「見たことのないオバケほど怖いものはない」からである。最初に「想定外を楽しむ」について触れたが、想定外(オバケ)が怖いから人は皆懸命に想定するのである。ところが見てしまうと意外と大丈夫なものであり、耐性が出来、事態に動じなくなり、心がタフになる。だから未知なることへの抵抗感や先入観を取り除くためにも、少々ハードルが高そうなことに沢山挑戦し、そして失敗を経験することが大事であると庄司氏は提言。
 そしてもう一つは、若いうちに失敗しておくことである。というのも歳を取るほどに責任を取る恐怖が増し、挑戦できなくなるからである。また、歳を取ってからの失敗は若いうちのそれに比べ痛みが大きい。若い頃の失敗は回復が早いので、抵抗がないうちに失敗を経験しておいた方が良いと庄司氏はテレアポの恐怖を思い出しながら笑った。

南アフリカ ~常識は知識のひとつ~
 次に庄司氏が赴任したのは南アフリカ、アメリカでの飛び込み営業からは打って変わり現地法人副社長としてである。1991年に悪法と言われたアパルトヘイト関連法が廃止され、南アフリカは海外との経済交易を再開。1995年にはMIDP(自動車産業開発プログラム)が実施され、部品や完成車の輸入関税の引き下げが行われる。鎖国中に自国内でインフラを整えてきた南アフリカの技術力に目を付けた日米欧の主要自動車メーカーは南アフリカに集積。そしてMIDP改訂・延長が決まった2000年、庄司氏は南アフリカ入りをした。
 ここで庄司氏は、この国で目を開かされたこととしてアパルトヘイトの実情について言及。多くの人間はアパルトヘイトを「白人が黒人を迫害するための法律」だと思っているが、実際は、資本家層白人と労働者階級白人との争いから転じた「労働者階級白人の仕事を守るための法律」だったということである。

◎一方的な価値観では実情は理解できない
 実は南アフリカの白人には二つの人種がいる。一つはアフリカーンス、労働者階級白人と呼ばれる旧オランダ系白人である。彼らは、日本のブラジル移民と同じように、狭いオランダから新天地を求めて最初に南アフリカに渡った開拓者たちである。そしてそこに資本を多く持ち、植民地化することに長けていたイギリス人がやって来る。そして元々住んでいる黒人がいるという構図である。ここで資本家層白人(イギリス人)は労働者を使って色々な事業を始めた。困ったのはアフリカーンスである。というのも安い賃金で働く黒人が数多くいたため、彼らよりも賃金の高い労働者階級白人は失業し居場所を奪われる危機にあったからである。そこでアフリカーンスは資本家層白人に詰め寄る。白人の中でも多数派で政治的には強い立場にあった彼らは、資本家層白人に国外退去をちらつかせ、ついてはアフリカーンスが抱える労働問題を解決するよう促し、労働者の立場の中で区切りの線を引き、職が奪われるのを防いだという経緯だったのだ。
 「今でも私はそこに正義があるとは思っていない」と庄司氏は前置きした上で、彼らにとってアパルトヘイトとは差別ではなく区別という発想だったのだろうと慮った。そして、彼らアフリカーンスもまた迫害を受けており、彼ら自身がさらに危険にさらされることを防ぐための措置だったと説明。また憎しみ合わないアパルトヘイトの成功例として、前赴任地であるニューヨークで人種ごとに居住区域が分かれていることを挙げ、アパルトヘイトというものが黒人を迫害するだけの法律だったという側面では測れない様々な事情を内包しており、一方的な視点で物事を見てはいけないことを示唆した。

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ロシア ~片思いの国民感情~
 次に庄司氏が赴任したのはロシア、スズキのインポーターであるスズキモーターロシア社長としてである。ロシアは2000年の資源バブルによる一大消費のあと原油価格が急落し、バブルは崩壊。車が急に売れなくなったため、在庫の叩き売りを命じられた庄司氏は2008年にロシア入りする。
 「ロシア人は本当に面白い交渉をする」と庄司氏は言う。交渉事というものは大概、双方が何とか合意点を見つけようとして話をするものであり、殊に日本人は互いの着地点や落とし所というものを考える。庄司氏も当然そのマインドでいた。しかしロシア人は譲らない。そもそも落とし所という考え方をしないのである。
 ある案件で交渉が暗礁に乗り上げた時のこと。ロシア人から真顔で「今回は結論が出ないという結論にしよう」と言われたそうである。曰く、今日どれだけ交渉しても合意には至らない。ただ、半年後もしくは一年後には貴方の立場も私の立場もそして環境も変わるだろうから、もしかすると合意できる条件が整うかもしれない。それまでは放置しよう。今日無理矢理合意する事でどちらかがプラスどちらかがマイナスとなると困るし、とのこと。つまり「棚上げ」という結論が彼らにはあるのである。それでは本社に報告ができないと、何とか合意を得るべく再び交渉へ向かおうとした庄司氏に対し、ロシア人のスタッフは「一旦棚上げにするという結論を出したのだから、次の連絡をするということは、連絡する側に合意へと至れる(落とせる)ネタがあるのだと相手は考える。だから手ぶらで行ってはいけない」と忠告してきたという。これがロシア式か、と庄司氏はある意味感慨深く思ったそうである。
 また、ロシアでの税務監査の時のこと。担当官が一人で来て、一週間会議室を貸してほしいと言い、そのまま部屋に缶詰した。彼はただ帳簿を眺めていたという。一週間経った頃、担当官は庄司氏を呼ぶと「私が上司から課せられてきた任務は、貴方の会社から200万円もらうことである。ついては払えるかどうかを決定しろ」と言ってきた。というのもロシアの税務署では予めどの企業からいくら徴収するかが割り振られており、それを担当官は実行すれば良いだけなので一人で十分なのである。新手の強請りかと庄司氏は驚き、200万は何を根拠に払うのか、うちは何を間違っていたのかと聞いたところ「それは私が考えることではない。貴方が自分の会社の帳簿を一番分かっているのだから、その中で適当に理由を付けて『これが間違っていました』と出してこい。それで200万円帳尻が合っていれば私は何も文句を言わない」とのたまうのである。
 面食らった庄司氏は日本の大手会計事務所にすぐさま連絡し、アドバイスをもらうべく状況を説明。すると「庄司さん、200万円払っときなさい。お宅の事業規模からするとその金額は安いよ」と言われてしまう。庄司氏は食い下がるが「根拠なんてものはないよ。欲しいって言われているんでしょ。逆らうと碌なことはないから」と言う。もしここで逆らうと、それこそ通関やその他諸々でどんな妨害が待っているか分からないから、おとなしく払っておく方が良いとの判断である。でもここで200万円払ったら来年は2000万円請求されるかもしれないと庄司氏が心配すると、「来年2000万円請求してくるかどうかは彼らの台所事情如何だから、貴方の事情とは関係がない。今200万円払おうが払うまいが、来年10倍の2000万請求されるかされないかは関係がないよ」と言われたそうである。

◎常識が障壁になる…Shouldを捨てる
 その時に初めて庄司氏は思い出したという。日本での税務監査の時も一通り調べられた後、10項目ほど監査員に疑問点を提示され「これだけあります。どれを自己否認しますか」から交渉を始める、俗に言う「お土産」を持って帰ってもらう議論をしたものだが、順序が逆なだけで最終的にお金を取っていくという行為に関しては同じだということであった。それが日本の場合は監査した「結果」であり、ロシアの場合は「予算」であるという違いだけなのだと気付いたとのこと。
 ロシアの税務署によるヤクザまがいの徴収方法を良いとは決して思わない、と庄司氏は断りを入れながらも、しかしながら「国家の主義や体制そして考え方が違えば、正義というものも変わる」ものであり、「こうあるべき」や「こういう常識が」という発想で物事を考えても無駄であると理解したとのこと。というのも、ロシアでの税務監査の件で庄司氏に問われたのは、いかに賢くその200万円の支払いを回避するかという一般的なビジネス思考ではなく、200万を払う腹があるかどうかという決断の部分だけだったからである。

【余談】北方領土問題再考
 ここで庄司氏は北方領土についての実情について言及。実のところロシア人は北方領土をいらないと思っているそうである。広大な土地を有するロシアにとって北方領土とは、漁業の利益以上に圧倒的に防衛維持費のかかる場所であり、ロシアを大きな屋敷に例えるならば、庭先の一番隅にある石をどうするかという話をしているようなものであるとのこと。つまり細かく交渉しても無意味なのだという。
 そこで、ロシア人お得意の「棚上げ論」をここでも発動させ、北方領土がどちらのものなのかを決めるのは100年後にし、「経済活動地域」として日本がお金と技術を出して活性化し、イギリス統治時の香港のようにする。こういう方法を提示すれば彼らは大いに乗ってくるだろうと、現場の声を知り尽くした庄司氏だからこその論を展開した。

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