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2015/7/24

経営学部設置5周年記念イベント「学生トークセッション&懇親会」 <前篇>

〈BBT大学イベントレポート〉経営学部設置5周年記念イベント「学生トークセッション&懇親会」<前篇>   ※後篇は こちら から 2015年7月11日、ビジネス・ブレークスルー大学麹町校舎でBBT大学経営学部設置5周年記念イベント「学生トークセッション&懇親会」が開催された。このセッションは、BBT大学の在学生・卒業生パネリストのストーリーテリングを通して本学の5年間の軌跡を振り返ると同時に、これからのBBT大学を構築していく上での青写真を皆で語り合い新たな躍進への一歩とする、キックオフ会である。本学一年次科目「IT学習入門」「IT学習実践」を担当する須子善彦講師をファシリテーターに迎え、セッション前半はBBT生の代表4名によるパネルディスカッションが、後半は前半のディスカッションを踏まえたワークショップ兼懇親の時間が設けられ、世代、地域、業種を超えた交流が行われた。

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須子氏は、本学に様々なバックグラウンドを持つ人間が多く集まっていることについて、失礼を承知でと断りを入れながら「動物園」と形容した。そして、この多種多様さについてはパネリストの4人だけに留まらず皆さんも当該者である。あくまで口火を切る役目がこの4人ということであり、ここから皆さんにもバトンを渡していくことで、皆さん一人ひとりの色も相まってBBTらしい5周年になっていくと思う。ここに集う皆さんが主役のキックオフ会である、と述べた。4人のパネリストによる各々のBBTストーリーは以下である。  パネリスト1 FA12 堀添さん教師になることが夢だった堀添さん。大学は文教育学部を専攻し卒業している。しかし卒業前に、卒業してすぐに教師になってしまうことに疑問を持つようになり、色々な経験を積むことが大切ではないかと考えた末にリクルートに入社。リクルートは長く勤める社風ではなく、堀添さん自身も3年くらい経験を積んだら辞めるつもりでいたが、仕事が面白かったため、気が付けば20年近く勤め続けてしまったという。その間にお子さんを二人出産している。会社勤めの19年のうち後半10年は管理系の仕事に就いていた堀添さんは、お客様と接する機会がなくなり、数字を扱うだけの仕事になったことから、自分の価値について自問自答することが多くなっていったという。そして40歳になったタイミングで、自分の後半の仕事人生を考え、かねてからの夢であった教師になるべく一念発起し、会社を退職。しかし、教師になるための再就職活動は難航を窮める。そのことで、これまで来た球を打つだけの生活をしてきてインプットが全然されてなかったことに気付かされたという。勉強し直し自分を磨き直したいと思った時にBBT大学を知り、大前氏の本は前から読んでいてビビビと来ていたこともあったので、退職金もあったことも弾みになり一週間で入学を決意する。子育てと勉強を自分のペースで両立できることもBBTを選択した理由の一つだったという。

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実際にBBT大学に入ると、子育てをしながら勉学する人がキャンパスに何人かいることが分かり、彼らの動向を意識するようになったという堀添さん。彼らと実際に会う機会を持ったことで、当初は知識をつけることが目的だったが、それ以上に「意識の変革」「世界観の広がり」を感じるようになっていったという。例えば言われたことだけをこなすのではなく、全て「自分事」として考えるようになった事など。考え方の根本が変化したという。そして、それまで自分が深く考えずに先生になりたいと思い、深く考えずに経験があった方が有利ではないかと考えていたが、若い時から自分が何をして働いていくかを、もっと熟考して人生を過ごしたら良いのではないかと思ったという。そこで若い人に役に立つことをしたいと考え、先生から路線を変更し、キャリアカウンセラーの資格を取得。またBBTには「プロジェクト学習」という卒論の前倒しのような科目があり、自分の人生の方向を整理し自分の課題に対して成果を作るという授業内容だそうだが、そこで自分の想いを可視化しメンバーに共有し相談したりしていったことによって、自分の本当の思いが見えるようになったという。そしてそれと同時に新しい仕事や人脈が繋がっていったとのこと。現在は、キャリアカウンセラーを週三回、社会科の教師を週一回務め、本来の夢の形以上のあり方で、若い人たちの未来をサポートする仕事に従事している。  パネリスト2 FA10 小野寺さん周りからは転職マニアと言われている。現在の会社は7社目、ドラックストアを160店舗展開している北海道のローカル企業だという。そこの本部でPOSレジの内製の開発マネージャーを務めている。この会社にはBBT在学中に入社し、現在4年目である。小野寺さんは26歳頃からITを始めた所謂レイトスターターで、前々より部分部分ではなく総体的に経営や起業について学びたいと思い、大学入学を検討していたという。ただその時点ではBBTは候補にはなく、地元の情報大学の通信制を念頭に置いていたとのこと。しかし出願期限一カ月を切った頃に其々の説明会に行ったところ、通信制大学は仲間と共に励まし合いながら勉強するのは難しく、講義スタイルも黙々と読書をして課題を提出するだけのものであることが分かり、「孤独との戦いは自分には無理だ」と分かったという。一方でBBTの説明会では、エアキャンパスという得体のしれないもので皆が繋がるという魔法のような話をされた。しかし学費は通信制の十倍はかかるし周りからも「詐欺じゃないの?それ」と言われ非常に悩んだが、気が付けば入学していたとのこと。

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BBT大学を卒業した現在、自身を振り返るにあたり、入学前と大きく変わったところは二点あると小野寺さんは言う。一つは、何事に対しても当事者意識を持つようになったこと。これまでは上司とぶつかった際に「何で俺の言うことが分からないんだ」と独り善がりな考えでいた。それが今は当事者の視点でモノを見るようになり、自分の仕事だという意識に変わったという。もう一つは、やるかやらないかというメンタルになり、どんなに困難なことでも怯まなくなったことだという。「俺はやりたくないが上司がやるから仕方なく」といった中途半端な絡み方はしなくなった。これもBBTでの無茶苦茶な宿題をどうにかこなしていくことで鍛錬された賜物だと小野寺さんは言う。小野寺さんがBBTで一番影響受けたのは心理学だそうだ。川上先生の講義によって、相手がなぜ怒っているのかといった心理を考えられるようになり、上司との向きあい方や接し方が変わったという。人との付き合いが上手になったと思えるようになった頃、ちょうど今の会社に誘われ入社した。現在は経営陣と信頼関係を築けており、大きな仕事を任され奮闘する日々である。  パネリスト3 SA12 成清さん大阪生まれ大阪育ちの専業学生である。お姉さんからの影響で資格を持ちたいと思うようになり、また数学や理系分野が得意だったので、建築士を志し関西にある大学の建築学科に入学する。しかし安藤忠雄クラスの建築家になるのはごく一部であり、自分はその域には達せないと気付いたという。そんな折に、安藤氏の建築における「人の導線」という発想がマーケティング理論に通じていることが分かり、それ以降マーケティングに興味を持つようになる。その頃ネット広告でBBT大学を知り、気が付けばいつの間にか2年次編入していたという。編入してから大学と並行してオーストラリア、フィリピン、カナダの語学学校に通ったという成清さん。大阪から出たことがなかった上に英語が全然できなかったため、外国に対する危険というイメージが先行していたので、比較的安全と言われるオーストラリアのゴールドコーストを最初の勉学の地に選んだとのこと。当初は飛行機で「何を飲みたい?」と聞かれて「コーヒー」と言ったらクッキーが出てきて「3ドル払え」と言われ必死にジェスチャーで断ったりと、英語でのコミュニケーションに悪戦苦闘したという。そんな状況からの海外生活だったが、だんだん慣れてきて安全だと思えるようになると、英語を話すことや色んな国の色んな人種の人と出会うことを楽しいと思えるようになっていったという。カナダではインターンで2カ月ビジネス英語に触れる。昨年10月に帰国、東京に拠点を移す。BBTに相談し、日本でも某製薬会社で週3日3カ月間インターンさせてもらえることになった。会社案内やコーポレイト向けの動画作りなどを任せてもらえ、多くの経験を得たという。現在、就職活動中の成清さん。英語のスキルアップのため外国人4人日本人4人のシェアハウスに住んでいるとのこと。文化の違いによる喧嘩も少なくはないが、楽しくワイワイ飲みながら暮らしている。

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BBT大学に入って自身が変わったと思うことは、自分の言いたいことを言葉にする力が付いたことだという。建築学科にいた時はイメージ先行の世界だったので「こっちの方がいいよね」といった曖昧な言い回しで特に問題がなかったが、BBTはエアキャンパスで発言を次々としなければならないので、自動的に自分の意見をきちんと具体的な言葉にする練習がなされたという。研修先の企業でも会議に入れてもらえるようになり、エアキャンパスでの訓練が生きていると実感することが多かったとのこと。また、もともと関西から出たことがなく、人に誘われても断りがちな性格だったが、大前研一の著書「やりたいことは全部やれ」を実行し、とりあえず「はい」と言い、色んなことに興味を持って取り組むようになったという。もし編入していなかったら現在は社会人一年目になっているはずだが、普通のメーカーに就職していると話す。今はリフォームの需要が多いので家を作っているだろうが、ありきたりのものをなぞるだけの生活だっただろうとのこと。  パネリスト4 FA12 藤本さんもともと大手ネットショッピングモールのデータセンターで監視業務をしていた藤本さん。そこに7年勤めていたという。営業とは違い稼働量をキープする仕事なので、ある意味過酷だが、ある意味つまらない業務だったそうだ。BBTに入るに至ったきっかけは大きく二つあるとのこと。一つは東日本大震災。夜勤明けで入浴中、素っ裸の時に地震が来た。大阪出身なので実は阪神大震災も経験しているのだが、阪神の時はどこかで他人事だった。中学生だったが「神戸大変だな」としか思わなかったという。しかし東日本の時は大人になっていたので事の重大さが分かるようになっていた。ボランティアで気仙沼に行き、実状を目の当たりにし更に衝撃を受けた。その東日本大震災をきっかけに、データセンターの社員達が――会社内の愚痴を言うだけの連中だったのが――社会そのものに対する不満を言うようになった。皆の意識が地震をきっかけに変わったのだと感じ、そこから色々と考えるようになったという。もう一つは維新政治塾。震災のあった翌年はじめに大阪に帰省した際に母親から維新のチラシを見せられたという。当時は政治の知識は全くなかったが興味はあったので、橋下氏のツイッターを半年分すべて読んでみたところ共感するものがあったので維新の受講生になった。政治塾にはとんでもない熱量を持った人達が集まっていたという。医師や士業な方、大手上場企業の方、ベンチャーの方もいた。彼らの熱気に、日本は変わると思えたのが二つ目のきっかけとのこと。自分が主体的に変わる原動力になったのはここだと言う。その政治塾の勉強会でBBTの大学院生の人達と知り合い仲良くなった。そこでBBTと大前学長を知り、政治から経済に興味が広がっていった。政治のことを勉強すればするほど、政治から日本を変えることはできない、実際には経済から変わると思えた。例えば既得権力をぶっ潰すと言っていても対案はなく机上の空論であり、違うと思った。結局は経済から草の根運動でやっていかないと日本は変わらないという思いが生まれた。

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BBTには、政治塾の時の熱量と同じものを感じたという。維新では政治で日本を変えるという方向性で議論がされるが、BBTの場合は新しいモノで日本を変えるという発想。感じた熱量は似ているがベクトルが違い、それが新鮮に思え、入学した。その後、親が病気になり治療のために大阪に戻った。東京にいた時にはあらゆるイベントや勉強会に顔を出していたのだが、大阪にはそういうものがなかった。それならば自分で作ってしまえと、当時RTOCS(Real Time Online Case Studyのこと)の勉強をしていたので、自分たちのRTOCS勉強会を大阪で始めた。そこから大阪のインキュベーションセンターの存在を知り、色んな人と触れ合ったりしていく中で知ったのが、ハッカソンというイベント。これに強い可能性を感じ、色んな地域の人達とハッカソンを作っていこうと思った。現在は、自分が主催者としてBBT大学と連携し、オフィシャルなイベントとしてリーンスタートアップハッカソンを開催するところまできた。将来的には「大阪を元気にする」をテーマに、海外の学生も巻き込んで、起業を視野に、もっと大きな活動をしていくと抱負を語る。 

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< 後篇 に続く>

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