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20代の経験と挫折で勉強の必要性を痛感学びを通してバージョンアップした自分に出会った

岸本 篤史
旅行会社勤務 営業職

好きな旅行に携わりたいと高校卒業後に旅行の専門学校へ進み、旅行会社へ就職。25歳のときに1年間海外を回り、帰国後しばらくして街づくりのNPO法人に籍を置く。その後、再び旅行会社へ就職。法人営業の部署で主に業務渡航の業務を担当しながら、BBT大学へ入学・卒業し、現在に至る。

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25歳のときに勤めていた会社を辞め、海外へ1年間の旅に出た岸本篤史さん。インド音楽との出会いとその中で味わった挫折感、帰国後に携わったNPO法人での経験などを通して、努力と勉強の必要性を感じたという。BBT大学で学んだことで、20代のころの自分と30代の今にどんな変化があったのか、話を伺った。

25歳のタイムリミットを感じて、海外へ1年間の旅に

両親が旅行好きで、小さいころからいろいろなところへ連れていってもらいました。そのせいか、私も旅行が好きになって、高校生のころなどは旅行記を読み漁っていましたね。特に沢木耕太郎さんの『深夜特急』が好きで、いつか自分もこういう旅をしたいと思っていました。そのころから、将来は旅行に関する仕事をしたいと考えていたので、高校卒業後に旅行の専門学校に入り、20歳で旅行会社へ就職しました。

その当時、ヒッチハイクでユーラシア大陸を横断するというテレビ番組の企画があったのですが、それを見て、自分もこういうことをやってみたいと思っていました。

そのうち、何かの本で「人生の中で何かに挑戦するとしても、社会復帰するには25歳くらいが年齢的に限界」というような内容を見たんです。そのときちょうど25歳だったので、もう今しかないと思って。そこで思い切って会社を辞めて、海外へ行くことにしました。

今思うと、20代のときは焦っていたんですよね。「このままじゃいけない。何かしないと」という気持ちが強かったように思います。それに、「世界に行けば何かあるかもしれない」という期待もあったので、ずっとやりたいと思っていた海外の旅を実現させることにしたんです。

旅はいわゆる「バックパッカー」のスタイルで、1年かけて韓国からポルトガルまで行きました。英語もまったくわからないというレベルでしたが、とにかく行ってしまえという感じで。アジア、中東、ヨーロッパと20カ国以上を回りましたが、特に中国、パキスタン、イタリアが印象的でした。

帰国後、アルバイトや契約社員としてしばらく仕事をしたのちに、街づくりのNPO法人で働くことになりました。その後、3年ほどでNPOが解散することになったのですが、同じくらいのタイミングで結婚したこともあり、収入的なことも考えて、また旅行会社に就職することにしました。

ラッキーはない――インド音楽とNPOの経験で気づいた努力と勉強の必要性

実は1年間の旅の途中に、インドでインド音楽をやっている人たちと出会い、彼らの演奏を見て、自分もやってみたくなったんです。それまで楽器の演奏なんてしたこともないんですけど、インド音楽の楽器の中でも特に難しい「サーランギ」という楽器に挑戦することに決めました。

さっそく現地でサーランギ奏者の先生に弟子入りしまして、帰国してからは、日本で見つけた先生に教えてもらいました。それからは、日本で仕事をしながら、時間を作ってはインドへ行くという形で、かなり本気で取り組んでいました。

そんなふうにして5年ほど続けていたんですが、なかなか自分が思い描いていた到達点までいけなくて、だんだん楽器の練習が苦痛になってきてしまったんです。でも、今やめてしまったら、5年間続けてきた自分を否定することになる。かなり悩みましたが、結局やめることに決めて、楽器も封印してしまいました。

「世界に行けば何かある」と思って旅に出たときには、その何かが向こうからやってきて、ラッキーなことが起こるのを待っていたところもありました。でも、そんなことは起こらなかった。旅を通して、「ラッキーはない。やはり努力するしかないんだ」ということがわかったんです。インド音楽にしても、練習すれば奏者になれるだろうと思っていましたが、結局自分で満足のいくところまでは到達できなかった。それが、自分の中で挫折を味わった経験のひとつになりました。

NPO時代にも自信を失うようなことがありました。そのNPOで働いている人たちはみんな街づくりの専門家で、大学院を出ているようなインテリの人ばかりでした。頭もいいし、仕事のスピードもものすごく速い。

私は行動力の部分を買われて入ったようなもので、実際に商店街を走り回っていましたが、彼らの頭の良さやロジカルな物事の考え方にまったくついていけない状態でした。それでも、仕事の内容や彼らの考え方に頑張ってついていこうとしていたのですが、あるとき「勉強していればできることなのに、君にはできないんだね」というようなことを言われてしまい、とてもショックを受けたんです。

そのNPOのあとに入社したのが、今勤めている旅行会社で、法人営業の部署に配属されました。企業の海外出張などの手配をする業務渡航が主な仕事なのですが、これまでそういう分野の勉強をしたことがなく、営業に行ってもお客様と思うように話ができなかったんです。営業先で怒られてしまうこともありました。知識のなさを痛感しましたね。NPO時代に経験した悔しさもありますし、「とにかく勉強しないとだめだ」と強く思うようになりました。

学びによって「行動ファースト」から「動く前に考える」ように変化

自分には政治や経済をはじめ、ビジネスに必要な基本的な知識が足りないと思ったので、まずは日経新聞を買うことから始めました。まともに日経新聞も読めないくらいのレベルだったんです。そうして何日か新聞を読んでいるうちに、BBT大学の学校案内が目に飛び込んできました。そこで、学校にもう一度行くことを考えるようになったんです。

ほかにもいくつか学校を調べてみましたが、時間的なことを考えると通信制の学校がよかった。それに、所属が法人営業の部署なので、経営的な内容を学ぶほうが仕事にも活かせるなと考えて、BBT大学に決めました。とにかく仕事上の不安が大きかったので、入学時に将来的な展望などを考える余裕はありませんでした。ただ、「4年間行けば何かが変わる」と信じてはいました。

いろいろな授業を受けましたが、特にコミュニケーション系の授業は、取れる限り受講して必死に勉強しました。バックパックでの旅やインドでの生活に慣れていたこともあって、人と社会的な会話をしたりすることにあまり自信がなかったんです。

ほかには問題解決の授業も印象的でした。ロジカルシンキングについても学ぶのですが、最初の授業で、「漏れなく、ダブりなく、ものごとを分けて考える」という意味の「MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)」という考え方があることを知ったときは衝撃的で、とても面白く感じました。

改めて考えると、仕事を辞めて海外に行ったこと、インドで楽器を習うために弟子入りしたことは、人生のターニングポイントだったと思います。そして、もちろんBBT大学への入学もそのひとつですね。

日経新聞も読めないほどのゼロからのスタートでしたが、今では、たとえばロジカルシンキングや問題解決の手法を実際に仕事上の提案でも活かせていますし、BBT大学に入る前と卒業後とでは、明らかに自分が変わったと感じています。内面的にも自信が出てきたように思います。

昔は「行動ファースト」で、あまり考えずに行動していたようなところがありました。でも、考え方を学んだことで、今では動く前にしっかりと考えるようになりましたね。反対に、今はなんでも考えずにはいられなくなっているほどです。

今後の展望としては、最近、自分の会社が大手企業の傘下に入り、組織の体制が変わろうとしているところなので、まずはその中で生き残るために何ができるか考えたいと思っています。将来的には起業も含めて、いつか個人で何かできたらいいですね。そして、いろいろなことから引退したころに、封印したサーランギの演奏をまた始めてみるのもいいかもしれませんね。

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